戦艦陸奥の爆発事故
陸奥(むつ)は、太平洋戦争中の日本海軍の戦艦であり、姉妹艦には
同じ型の長門があります。
陸奥は、ワシントン海軍軍縮条約では破棄されそうになったのが
日本海軍の交渉の結果、陸奥の建造が認められることになりました。
陸奥と長門は、全長は225mで、4門の40cm主砲を装備していました。
陸奥は、第二次大戦中には他の戦艦の大和、扶桑、山城、長門、日向、伊勢と
同様に日本海軍の主力艦の1つでした。
当時の全世界においては、40cm主砲を持った戦艦はすべてあわせても7隻
しか存在していませんでした。
戦艦陸奥は、ミッドウェー作戦や第二次ソロモン海戦に他の艦とともに出動は
してはいても、敵艦隊と戦闘を交えることは1度もありませんでした。
1943年(昭和18年)6月8日に、山口県岩国市柱島沖に、戦艦陸奥、扶桑、長門と重巡洋艦の最上、軽巡洋艦の大淀とほかに4隻の駆逐艦が停泊中
でした。
そのときは梅雨の時期であることからも、海上には、ぼんやりと、霧のような
ものがかかっていました。
午後12時過ぎに、陸奥の船内で、乗組員たちが昼食をとっているときに、
陸奥の3番砲塔から急に煙が上がってきました。
そして、すぐさま、大爆発を起こして船体は4番砲塔後部から真っ二つに折れて
しまい、船体が傾き、そのまま沈んでいきました。
この爆発に対して、周りにいた艦隊の船員には突然起こした大爆発音が何なのかわからず、唖然としていました。
もしかしてこの爆発が、敵潜水艦による魚雷攻撃ではないかと勘違いして、
駆逐艦から、めくらめっぽうに爆雷を投下するようなこともありました。
この大爆発にの結果、艦長を含めて1121名が死亡するという、大惨事に
なりました。
爆発ついての本当の原因には憶測が」流れていますが、何らかの恨みを持った乗組員が、艦内に弾薬庫に潜んで放火したのではないかという見方もありますが、実際のところは、今でも不明な状態です。
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