大坂冬の陣・夏の陣
大坂の陣は、秀吉亡き後の豊臣家と家康との
争いです。
大坂冬の陣と大坂夏の2つの陣があります。
年代別には、大坂冬の陣の方が夏の陣よりも
先になります。
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦いにおいて、
徳川家康は、石田三成率いる西軍を破りました。
これ以降は、家康は江戸城を拠点として新たな政権
づくりに着手しました。
ところが、この時点で豊臣家はなおも存続していて、
徳川家にとって豊臣家は別格的な存在でした。
これは、徳川家康にとっても徳川家を頂点とする
ためにも都合の悪いことでした。
そこで、家康は豊臣秀吉の子である秀頼を服属させる
ことを考えることになりました。
1613年までに、浅野長政、加藤清正、池田輝政、
前田利家らが次々と死去しています。
このような中で、徳川側は、大坂城攻めの兵器として
鉄砲や大筒の製造をしていました。
さらに、イギリスやオランダに大砲などを注文し軍備
を増強していました。
大坂城では、豊臣秀頼の母である「淀」が中心となって
運営が行われていました。
そして、1614年11月に、大阪冬の陣が始まりました。
家康は、全国の大名に豊臣討伐のため参陣するよう要請し、
その兵力は20万にもなりました。
一方の豊臣家に加担す大名は全くないにもかかわらず、
豊臣家には約10万もの兵力が集まっていました。
このときの豊臣家には、後藤又兵衛、大谷吉継、毛利勝永
などの豪傑もいました。
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